音楽サイトのこと
先日も書いたんだけど、僕の手伝っている音楽サイトが、ついにスタートすることになりました。
サイト名は「玉手音.tv」
12月25日からサイトがオープンするんだ。
んでもって、公式サイトがその前にスタートします。
これから、いろいろと面白くなりそうだよ。
まずは、ご報告まで。
ちょっと気分を変えて…
スキンを変えてみました。
これだけで、ずいぶんと気持ちも変わるものですね。アートの力は偉大です。
このスキンをつくられた方に感謝です。
最近は、音楽寄りの仕事を久しぶりにしている。
音楽は、偉大なアートであると同時に、
時間を司る要素もある事を改めて実感している。
テンポやリズムパターンや展開があり、その間を縫うように、
様々なメロディがハーモニーを生み出してゆく。
そんなことを感じながら仕事をしていると、
ついつい僕だけが、時間に追われてしまうのだ。
…いや、サボっているわけじゃないんだけどね。
僕らは宇宙の真ん中にいるんだよ
おかげさまで、幻冬舎から出版した「タトゥー・エイジ」が、この夏を中心に、多くの人たちに読まれているようだ。そして、そろそろ増刷されそうだと、先日、担当編集者のC氏から連絡があった。
じつは、以前に自分の本を皆にプレゼントしようと、著者扱いで数十冊買い込んだはいいが、
ズボラな僕は支払いもうっかり遅れてたりしていたのだ。
そんな矢先の、C氏の電話に、借金取りの催促と同じような反応で、電話口にでてしまった自分が情けない。
「あっCさん、久しぶり。ごめん、今月末には支払うから許して!」
と僕。
「いや、そんな事じゃなくて、タトゥーエイジが、この夏に結構売れてまして、そろそろ増刷しようかと思って、その相談の電話でした。うれしいですね!ベストセラーの兆しですよ」
僕は、一揆にハイになり、口調も一変!!
「そうですか!ありがとうございます」
出版し終わった著者は、その後は実質、成す術などなく、ただただ、書き終わった原稿の粗だけが目に映り、反省もそこそこに、次の題材に嗅覚を澄ましているものなのだ。しかし、そんな時に、読者の皆さんからの反応が伝えられると、心の奥から力が湧いてくる。
今、僕は、「移動する民」についての何かを書こうと、イメージを凝らしている。
それは、トライバル・タトゥーという、刺青のひとつのジャンルとの出会いから始まったインスピレーションだ。
人間は、いや、生物は、地球上に誕生してから、僕らの想像をはるかに超えるレヴェルで、移動を繰り返している。もしかしたら、その移動は、3次元的な移動だけではなく、時空すらも超えているように感じられる。
カルロス・カスタネダとヤキ・インディアンの呪術師であるドンファンとの対話や、僕が出会った多くのスピリチュアルな導師たちの発言などを引用するまでもなく、最近、僕が出会った、多くのITプログラマーやビジネスマンとの対話などを思い起こすと、時空を超えた己の魂の移動ハイヤーセルフとの交流について、本気でリアリティを持ち始めている人たちが出現し始めていることを実感している。もちろん、アーティストやストリートライフに生きているSexyLadyたちは、20世紀からすでに、そのことを体感していたわけだが‥
21世紀も数年が過ぎ、確実にこの世界のパラダイムは魂の領域にシフトしたようだ。
そして、そのことを肌で感じている若い感性たちが、新たな表現としてのタトゥーを刻み込み、命を張って表現している。まぁ、おおくの若者は、屁理屈などはぶっ飛ばして、ストリートに生きているのだろう。それは、今も昔も変わりはしない。
ただ、これだけは、僕は感じている。
なぜ、スピリチュアルの時代を迎えているのか?
それは、この世界の、この世での生命力が、ゆっくりと弱くなっているからなのだろう。
20世紀にピークを迎えた、マテリアルなパワーポリティクスは、東西の壁の消滅に象徴されながら、急速に力をうしなっていた。唯一のIDといての民族の主張は、新世紀に対応しようと苦しむアメリカとワールドスタンダードの価値観と対立するようにみせかけながら、命の奪い合いを繰り返し、同じ魂のレヴェルで苦しみを分かち合っている。
今、僕たちに何ができるのだろう?
そんな事に迷った時、僕はあるイメージを思い浮かべることにしている。
目を閉じて、ゆっくりと呼吸を整え、生まれてから今までで、一番きれいだった風景を可能なかぎり微細な部分まで思い浮かべる。そして、いままでで一番つらかった自分をその風景に重ね合わせ、その時のやつらかった失敗についての具体的な原因力を客観的に見つめ、そこに立ちすくんでいる自分自身を抱きしめてやるのだ。
「大丈夫、君は良い方向へ導こうとして、この袋小路に迷い込んでしまたんだね。君である僕は、しっかりと理解しているよ。」そう声を掛けながら、過去の自分を抱きしめてやるのだ。それが、僕の、僕自身に対する具体的なヒーリングの方法だ。
今の地球、そして、この次元の空間は、明らかにパワーダウンをしている。それは、善悪の問題でも、吉凶の問題でもなく、宇宙のパワーの流れの問題なのだと、僕は理解している。
だから、この現象について、過剰に怯えることも、落胆することもない。すべては、自然のままなのだ。
ジョン・レノンも、ボブ・マーレイも、そう予言していたではないか。
20世紀を潜り抜けてきたアウトローたちは、直感的にそのことを理解している。だからこそ、例えば、ロックは、今、とても心やさしいスタンスで、僕らへメッセージを送っている。或いは、徹底的にエンターティンに徹した姿勢で、ワールドツアーを行っている。そして、彼らの多くは、口々に言う。「今の日本こそ、もっともエキサイティングな場所だ」と。
ジョン・レノンは前世紀にそのことに気づいていた。そして、多くの著名なロックアーティストが、密かに日本の文化的な地域に居を移し、ダイナミックに移り変わってゆく、パラダイム・シフトを体感し、楽しんでいる。
この時期にここに生きていることを、僕たちは、もっと認識すべきである。いや、それは義務とか責任とかではなく、体感しなきゃ損しちゃうでしょ!という感覚で捉えてほしい。
「灯台下暗し」だし、自分自身のことは見えないのである。そんなことは皆わかっている筈だ。だから、反省などする必要もないし、そんな暇もない。
世界のパラダイム・シフトの中心は、今の日本にほかならないのだ。
僕らが、この短い期間のダイナミックな出来事を、どこまで感じ取れるかは、これからの地球ライフと深い関係があるのだろう。
20世紀の不良たちが、命がけで優しさの大切さを訴えている今、倫理だけでエコを感じたり、その真逆に制度の範囲の中だけで不倫やプチアブノーマルに快楽を求めたりすることには、もう、なんの意味もないことを知るべきだ。
むしろ、僕は今、ドヴォルザークの見た、20世紀の夜明けである、新世界のメッセージにリアリティを感じている。
耳を澄ませ、風を感じろ。
生物本来の緊張感を少しでも思い出し、リラックスして、人類にしか出来ない、生命の知恵とは何かを、具体的に考え、生きているうちに、そのひとつくらいは実践してみようじゃないか。人のため、地球のためとは言わず、まず、苦しみ続ける自分の魂のために。
もしも、今地球にいるメンバー全員がそれを実践したら、想像を絶する変革が起きるだろう。
人類には、それだけの能力があるはずだ。
と、そんなことを本気で思いながらも、タトゥーエイジの増刷を夢見る、秋の夜長である。
まったくもう!
ご無沙汰しているうちに、すっかり秋ですね。
僕は相変わらずブラブラと散歩をしたり、秋刀魚を肴に一杯やったり、そろそろ熱燗もいいかなぁなどと、呑気に過ごしています。
そう言えば、最近、あるサイトの立ち上げの手伝いをしています。
音楽関連のサイトなのだけど、結構面白くなりそうですよ。
もう少ししたら、詳しいことを伝えられると思います。
期待していてくださいね!
むかえび
今日は送り火だった。
一昨日の迎え火で、死んだ母や祖父や祖母を迎え、今日、お送りした。
東京の方では、7月のこの時期に「お盆」がある。全国的には、8月がお盆なのだろうが、東京に生まれた僕の実感としての「お盆」は、やはり、この時期なのである。麻の柄を乾燥させたものを玄関先で燃やし、その火を目印に、祖先をお迎えする。お盆のこの時期には、死んだ母や友人たちを思い出す。東京では、この日を境に、夏を迎える。
僕らはこれを「おひょろさま」と呼んでいた。
茄子やきゅうりに麻がらを四本、足に見立てて突き刺した、丑(うし)と午(うま)を仏壇に供え、お迎えの準備ができると、庭先に親族が集まり、火を焚いてお迎えする。
「おひょろさま」とは、恐らく、お精霊様(おしょうろさま)のことであろうが、僕が子供の頃は、「おひょろさま」は独特な雰囲気を持った、そして、日常に密着した、こころの儀式だった。
子供の頃の記憶が、すうっと甦る。駄菓子屋で買って来た様々な花火、その晩に親戚のおじさんたちが飲んでいた瓶ビール、ラジオから流れていたナイター中継や、蚊取り線香の匂い。ゆっくりと時間を味わう。
モード・チェンジ
祭囃子
浅草三社祭に参加してきた。
毎年の事なのだが、ある町会でお囃子を叩かせてもらっている。
僕が小学校の頃からなので、もう30年以上になる。今は、僕らが地元で結成している囃子連の子供たちが叩き、僕自身はもっぱら、太鼓を運んだりする雑用係なのである。
三社祭は、金龍山浅草寺のご神体である、小さな黄金の観音様を網ですくいあげた3人の漁師を祀った、三社様の祭である。そのそれぞれを祀った神輿が『一の宮』『二の宮』『三の宮』の三基の宮神輿を、氏子たちが担ぎ、大地を踏み締めながら、各町内を受け渡し、渡行してゆく。三社様の紋は、三つの漁師網がモチーフとなっており、編み目模様とともに、印半纏などや手拭いなど、様々なところで使われている。そんなところからも、この祭が、もともとは海から始まったものなのだという事がわかる。
まあ、そんな能書きは抜きにして、祭はやはり楽しい。いくつになっても、心がうきうきして、芯の部分が殺気だったり笑ったり、心も身体もいい緊張を感じ、リラックスできる。特に、宮神輿の渡行は、エキサイティングだ。「踊る阿呆に見る阿呆」と言うけれど、「祭馬鹿」も同じで、見物しているよりも、参加している方が遥かに楽しい。これは一生直らないかもしれない。
舞踊とブログ
6月に行われるフラメンコの舞台の裏方を頼まれ、親しいスタッフと、あーだこーだと打合わせやリハーサルを重ね、挙げ句に「飯食いに行こう」と連れ立っては、たらふく酒を飲む。頭と身体が完全に舞台モードに入ってしまうと、数日はそこから抜け出せない。いや、数日なんてとんでもない。数年、数十年、一生その世界に身を捧げる、舞台とは、楽しいが恐ろしい世界だ。
ところで、「舞台と文学」とは、対局的なものであり、非常に似通ってもいる。だから、大変相性のよい表現手段なのであろう。そのエッジをもう一度見つめてみる、よい機会かも知れないと思う日々である。書き込みをサボってしまったことへの言い訳でもあるのだが。
大地を踏みならすという事
普段、何気なく毎日歩いている道を、重い御輿を担いで通る時、そんな思いがめぐる。素足やわらじで大地の感触をダイレクトに感じながら、地面を踏み鳴らしながら一歩一歩進んでいると、自分が歩んでいた一年間の垢が洗い落とされるような、そして、新たな力がその道に注がれるような感覚を覚える。同時に、大地から自分の身体の中に、エネルギーが入り込むような感じになる。
もしかしたら、大地を踏み鳴らすという行為が、そんな感覚を呼ぶのかもしれない。例えば、相撲の力士がシコをふむ時、横綱の土俵入などは同じ力を呼ぶような気がする。
或いは、歩くという行為そのものに、その力はあるのかもしれない。
普段、僕たちは革靴やスニーカーを履いている。また、都会での日常の歩行距離や道程は、本来の人間の歩くという状態には程遠いのかもしれない。素足で何日も何日も、ただひたすら歩き続けるだけの修行というのも、この世には存在する。また、日本でも昔は、物凄い距離の沢や山を歩いて移動していた部族もいたと聞いたこともある。やはり、大地の感触を直接感じていたほうが、エネルギーを感じることが多いと考えたほうがよさそうだ。日常生活を履物を履かずに素足で過ごすことは、なかなか難しいことであるが、毎日の通勤や通学の道で、そのことをちょっと意識しながら歩くだけでも随分感覚がかわりそうな気がするが、どうだろうか? (不思議旅行案内/本文より)