幕末最後の忌部呪術 | 不思議旅行案内 長吉秀夫

幕末最後の忌部呪術



謎の狛犬のことを考えていたら、あることに思い当たった。

幕末に突如日本に巻き起こった「ええじゃないか」という出来事である。

「ええじゃないか」とは発祥場所には諸説あるが、慶応3年7月に渥美半島の根元に位置する現在の愛知県豊橋市付近に突如、伊勢神宮のお札が空から降ってきたことで、民衆たちが熱狂し、「ええじゃないか えじゃないか」と叫び踊りながら伊勢神宮を目指していったという幕末の事件だ。

この「ええじゃなか」の背後には忌部氏と大麻の存在があるのではないかと考えたのである。


黒船の来襲や討幕運動による政情不安や経済不安定などにより、国中の民衆に漠然とした不安と不満が募っていたこの時期に、突如伊勢神宮のお札が空から降ってきたのだから、これは神様のご加護のしるしに違いない!と多くの人々が狂気したのもうなずける。伊勢神宮に向かう人々は集団が進むにつれて多くなり、途中の宿場では集団に対して食事や酒を振舞うものもでてきたという。


『日本国のよなおりはええじゃないか

     ほうねんおどりはお目出たい
     おかげまいりすりゃええじゃないか

              はぁ、ええじゃないか』


       不思議旅行案内 長吉秀夫-ええじゃないか

「ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌明治元年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」ウィキペディアより


「ええじゃないか」の影には、討幕派による陽動作戦とか、幕府による民衆不満へのガス抜きのための仕掛けという見方も存在する。


ところで、「ええじゃないか」の発祥地といわれている渥美半島は海洋民である忌部氏と深い関係がある。

海洋忌部とゆかりのある海洋民に安曇(あずみ)族という民がいた。彼らは海洋忌部たちとともに海を移動し、古代天皇家の料理役として仕えていた。彼ら安曇族の痕跡は、各地に残っている。長野県の安曇野とか安曇という地名もそれに当たる。安曇神社などもそうだし、TBSアナウンサーの安曇さんもその末裔だろう。そして、「あずみ」という音が変化したもののひとつが「渥美半島」である。これは「安曇:アヅミ」が「渥美:アツミ」に変化したものだといわれている。


東四国を本拠地とする、忌部氏が率いた海洋族たちは、黒潮を利用して紀伊半島、渥美半島、伊豆や房総半島に上陸し、その影響力を強めていった。

その土地のひとつである渥美半島に、慶応年間最後の年に伊勢神宮のお札が突然空から降ってきたとはいったいどういうことなのだろうか?

もしかしたら、大麻比古神社の狛犬と関係があるのかもしれない。


伊勢神宮は忌部氏に大変ゆかりの深い神社である。そして、伊勢神宮のお札は「神宮大麻」とよばれており、その昔は大麻繊維或いは葉そのものが入っていたとも言われている。そして、この大麻を管理していたのが忌部氏なのである。

忌部氏はクオリティの高い麻の種や穀物の種子の生産と流通も握っており、種まき時期などの知識も豊富だった。そのため、伊勢神宮では神宮大麻とともに、農耕時期をみることができる伊勢暦も毎年発行し、全国にネットワークを張り巡らせていた。それらの情報やコンテンツを握っていたのが忌部氏なのである。


大麻比古神社の狛犬は、慶応年間に寄進されたという。そして、そこに描かれている人物は、大麻を吸っているのはほぼ明らかだ。ということは、この時点で忌部氏たちは、神事やそれに関連する場面で、大麻草を吸ってトランス状態になることがあった可能性が高い。


渥美半島の豊橋に突如「神宮大麻」が降ってきたとはどういうことなのか?なぜ民衆は熱狂したのか?

もしかしたら、初動での神宮大麻とは大麻草そのもののことではないだろうか?

一説によると、ええじゃないかの行列の中には、大麻草を掲げながら踊っていたものもいると聞く。

四国の呪術集団忌部たちが海路渥美半島に移動し、彼らのネットワークと大麻によって、集団的な熱狂を起こしていったということは考えられないだろうか?

神宮大麻を空にばら撒き、それとともに、民衆に紛れた忌部氏のエージェントたちが大麻を多くの人々に吸わせて、或いは護摩焚きに入れて、トランス状態の中で誘導して行ったということがあったのではないだろうか?


神代の時代から国の安泰を願ってきた忌部氏たちにとっても、幕末の状況は危機的なものだったに違いない。

そして、討幕による天皇政治の復活は、もしかしたら忌部氏が再び表舞台に登場するチャンスだと考えていたかもしれない。

当時、イギリスの植民地だったインド、そして、東インド会社を通じて、インド大麻はすでに欧米へと流通していた。

討幕側に取り込まれていった天皇家側である忌部氏たちは、グラバーをはじめとする欧米のエージェントたちとなんらかのコンタクトがあったか、その影響下にあったと考えても不思議ではない。

その中で、忌部氏は「ええじゃないか」という集団催眠のような狂乱を、強力な印度大麻を使って巻き起こしたのではないだろうか?そして、一度引き起こされた熱狂は、手を触れずとも次々と全国に飛び火していったのかもしれない。


『さりとてはおそろしき 年うちわすれて
  神のおかげで踊り ええじゃないか
  日本のよなおりは ええじゃないか
豊年おどりは おめでたい
日本国へは神が降る
唐人やしきにゃ 石がふる

 ええじゃないか  ええじゃないか』



慶応3年1867年7月に突如始まった「ええじゃないか」は、その年の12月9日の王政復古発令をピークに、徐々に鎮火していった。

そして、天皇の玉座が、再び歴史の表舞台に現れたのである。